雰囲気

 
我々が、感じる幸せは2種類あります。

一つには、幸せと感じる理由が、そこにあるという幸せ。
たとえば、念願の子供を授かることができた。一戸建ての家に住むことができた。病気が治った。願っていた学校へ入学した。など、何々だったから、幸せ。というように、幸せと感じるには、何か、具体的な内容が背後にあるという幸せ。

 
そして、もう一つは

幸せと感じる理由がないのに、ただ、ただ、幸せと感じてしまう幸せ。一見、漠然としているような幸せですが、何々だったら・・・ という「何々」がないのに、ただ、ただ、幸せと感じる幸せ。

 
この両者の違いは、前者は、幸せを自分以外の外に求めているということです。
そして、後者の幸せは、自分自身の内側に意識が向いているという感じかな。

 
  人のこころの深い奥を
  もっと、もっと、深くつき抜けて
  更に、さらに行ってみなさい。
  そこには、歓びも悲しみの流れもなく
  一片の思考のさざ波さえもない
  静謐で時間なき空間
  全体のなかの部分は
  部分のなかの全体であって
  ただ、「一なるもの」
  これこそ叡知、慈愛、善性、神聖
  そのものであると気付くでしょう。

 
私は、この詩がすごく好きなので、この内容をそのまま額に入れて、自分の部屋に飾って、毎日、眺めながら暮らしています。
 
人のこころを深く、深く掘り進んでゆくと、そこには、幸せの原点(光)がある。その光に触れたとき、人は、真に幸せを感じますよ。という意味らしいですよ。
 
つまり、先程の「幸せ感」からすると、後者の幸せを掴むには・・・ということを物語った内容でしょうね。
 
前者の幸せを勝ち取るには、外に目を向け、自分自身を満たしてくれそうな幸せの対象を探し、そして、めぼしいものが見つかったら、それを得るためにひたすら努力なりを続ける。
その結果として、運が良ければ、結果が得られる。ということでしょうか?
 
それに対して、
後者の幸せは、自らの内側に意識を向け、ひたすら自分自身の心の奥深くへ、潜水ダイビングのように、深く、深く、潜ってゆかないと出会えない幸せのようです。

台風の時には、海の表面は大荒れ(高波)ですよね。
台風の時に海に潜ったことがないので確かではありませんが、でも、そんなときでも、きっと、10メートル、20メートルと、深く、深く、潜ってゆくことができさえすれば、深まるにつれ、波の影響が少なくなり、深く潜れば、潜るほど、辺りは静かになってゆくと想像できます。

 
人のこころも、これと同じ様なことが言え、潜れば潜るほど、静かになるようです。

静けさ、イコール、幸せです。

 
何々だっ「たら」幸せ 何々で「あれば」幸せという「たら、れば、幸せ」とは違う、何もないけど、ただ、ただ、幸せ。と感じる後者の幸せです。
 
我々の心は日頃、ただ、ただ、忙しいので、この静けさ(安らぎ)を感じることができないのだそうです。
 
「だったら、誰もが皆、自からの「心」という海を潜ったらいいじゃないの!」という結論になるわけですが、「そう、うまい具合にはならないのですよ!」というのが現実のようです。
 
何故かというと自らの心の内を潜る過程において、必ず、さまざまなゴミと出会うからです。


潜在意識のゴミとは

潜在意識に沈んでしまった恐怖、不安、怒り、怨み、憎しみなど、さまざまなネガティブな感情や、過去の嫌な思いなど、たくさんの障害物がそこにはあります。

潜ってゆくうちに、必ず、それらのものと、ぶち当たります。
仮に、恐怖という「塊(かたまり)に、ぶつかったら、それはもう、大変なこと。
「わ~~ 怖い!」ということで、怖くて、怖くて、引き返すか、逃げ出すか、それとも、最初から、そんな怖い思いをしてまで・・・と、もう、二度と、潜ってみることはしないでしょうね。

 
以前、ある方からメールを頂きました。そのメールの内容を一部拝借しますと

「魂の深い所に触れるのは非常な恐怖感を伴うもので人はそれを避けるためには何でもする」

 
ということが書いてありましたが、まさに、そんな感じなのです。
 
昔から、自分自身の心をよく見つめなさい。と言われていますが、言うのは簡単 でも、しかし、実践となるとなかなか大変な事なのです。
 
記述式内観ですが、「内観」という字をよく見ていただくと、エッ、内を観ると書いてあるではないですか?
 
内観についてのやり方だけを読んでいると、親に対しての悪口を書くことが、記述式内観だと思われてしまうようなところがあるようですが、実は、記述内観法とは、自らの内側を観ることをするためのお手伝いなのです。
 
自らの内側を観るといっても、今までの人生の中で、たくさんのゴミを内側(潜在意識)に溜めてしまっているので、いきなり光の部分を発見できる人は稀ですから、まずは、ゴミ処理から。
 
実際に自分自身の内側を観察してみると、よく分かりますが、あまりにもゴミの多さに嫌気がさして、続ける気力がなくなります。また、ゴミを見続けることなんて、もう、うんざりですよ。となってしまうことがほとんどです。
 
ですから、独りで、それをやり続けることはなかなか至難の技です。
 
そこで、登場したのが、 記述式内観研修。
ゴミ出し作業に焦点を絞り、短期間の内に、一気にゴミを処理してしまいましょう。
という研修なのです。
 
ゴミさえ、うまく処理できれば、誰でも光(感謝の領域)意識にたどり着くことができる。という発想の元に、世にも珍しいゴミ、ゴミ、ゴミと、ゴミ処理だけに専念した研修となっております。
 
体験談でご紹介させて頂いておりますが、ゴミを処理していった結果、別の意識を垣間見た。という方も実際にいらっしゃいますから、私がお伝えしていることも、まんざら嘘ではなさそうです。
 
そんなに一度にたくさんのゴミを、その人自身の内側から出してしまって、ゴミ出しに参加した人が具合が悪くなってしまうのかというと、何とも不思議、ゴミを出せば出すほど、気持ちが楽になってしまうというのが現実です。
 
参加された場合には、用意された紙に、ただ、ただ、親に対しての愚痴、不満、悪口等を書けば良いのです。
 

あの時、あんなことを言われて、とっても、頭に来た。
なんで、あんな事を言われなければならないのだ。
ばかやろう。冗談じゃ〜〜 ないよ。
親父なんか、死んでしまえ! 

 
・・・ と、こんな感じで、ご自身の心の中に、ため込んだ本音を、ただ、紙に書くだけなのです。書いていると、段々に、心の奥深くに沈んでいた、潜在意識レベルの思いや感情が出てきます。
 
参加者さんに、やっていただく事とすれば、たとえばですが、あなたの家の台所にある家庭ゴミを、ゴミ収集場所にまで、持って来ていただくことなのです。
 
その後はお任せ下さい。
ゴミ収集場所に集められたゴミは、記述式内観のスタッフがゴミ収集車を運転して、ゴミ焼き場まで運んでゆきます。・・・というような感じなのです。なんとも不思議な話ですよね〜〜
 

なぜ、
記述式内観は、
自分一人で我流でやらない方がいいのか?

 
一には、
ゴミ処理は、参加者ご自身では、とても、とても、大変な作業となるので、プロに手伝ってもらうといいのではないでしょうか。という感じです。
 
そして、もう一つには、
いざ実際にやってみると、自分自身の意識が、自からの内側の、本当に向かわねばならない点から目を背けてしまう。辛い事、嫌な事は誰だって見たくないですよ。つまり、心は、いろいろな理由をつけて逃避しやすいのですが、それを、第三者的立場である面接者が戻してくれるのです。
 
 

ゴミとは自分自身のもっとも辛い部分でもありますから、意識が別のところへ逸れてしまっても、まあ、仕方がないことではありますが、でも、逸れてしまったままでは、いつまで経っても、本当のゴールへ行き着くことが出来ないでしょうから、内観のお手伝いしている私共としては、この時にこそ、参加者の意識が内側へと向かえるようにと、何度も何度も軌道修正というサポートをしてゆくことになります。

 
やっと本来の軌道に戻ったかな~~ と思っていると、また、2時間後の次ぎの面接のときには、また、方向性が逸れてしまうという方もいらっしゃいました。ご本人様の長年の心の癖なんでしょうね。
 
自分自身の内側の現実から逃避してしまうと、いつになっても道が開かれることはありません。
つまり、汚いものには蓋をして、見て見ない振りをして・・・ ということで、偽りの人生を送らなければならないと感じますから、ここが勝負どころと思って、また、その方が自らの内側と向かい合えるようにと後押しをして差し上げたりするのですが・・
 
まあ、なんとなく、こんな感じで、記述式内観をやっています。

雰囲気

 
我々が、感じる幸せは2種類あります。

一つには、幸せと感じる理由が、そこにあるという幸せ。
たとえば、念願の子供を授かることができた。一戸建ての家に住むことができた。病気が治った。願っていた学校へ入学した。など、何々だったから、幸せ。というように、幸せと感じるには、何か、具体的な内容が背後にあるという幸せ。

 
そして、もう一つは

幸せと感じる理由がないのに、ただ、ただ、幸せと感じてしまう幸せ。一見、漠然としているような幸せですが、何々だったら・・・ という「何々」がないのに、ただ、ただ、幸せと感じる幸せ。

 
この両者の違いは、前者は、幸せを自分以外の外に求めているということです。
そして、後者の幸せは、自分自身の内側に意識が向いているという感じかな。

 
 人のこころの深い奥を
 もっと、もっと、深くつき抜けて
 更に、さらに行ってみなさい。

 そこには、歓びも悲しみの流れもなく
 一片の思考のさざ波さえもない

 静謐で時間なき空間
 全体のなかの部分は
 部分のなかの全体であって
 ただ、「一なるもの」

 これこそ叡知、慈愛、善性、神聖
 そのものであると気付くでしょう。

 
私は、この詩がすごく好きなので、この内容をそのまま額に入れて、自分の部屋に飾って、毎日、眺めながら暮らしています。
 
人のこころを深く、深く掘り進んでゆくと、そこには、幸せの原点(光)がある。その光に触れたとき、人は、真に幸せを感じますよ。という意味らしいですよ。
 
つまり、先程の「幸せ感」からすると、後者の幸せを掴むには・・・ということを物語った内容でしょうね。
 
前者の幸せを勝ち取るには、外に目を向け、自分自身を満たしてくれそうな幸せの対象を探し、そして、めぼしいものが見つかったら、それを得るためにひたすら努力なりを続ける。
その結果として、運が良ければ、結果が得られる。ということでしょうか?
 
それに対して、
後者の幸せは、自らの内側に意識を向け、ひたすら自分自身の心の奥深くへ、潜水ダイビングのように、深く、深く、潜ってゆかないと出会えない幸せのようです。

台風の時には、海の表面は大荒れ(高波)ですよね。
台風の時に海に潜ったことがないので確かではありませんが、でも、そんなときでも、きっと、10メートル、20メートルと、深く、深く、潜ってゆくことができさえすれば、深まるにつれ、波の影響が少なくなり、深く潜れば、潜るほど、辺りは静かになってゆくと想像できます。

 
人のこころも、これと同じ様なことが言え、潜れば潜るほど、静かになるようです。

静けさ、イコール、幸せ

 
何々だっ「たら」幸せ 何々で「あれば」幸せという「たら、れば、幸せ」とは違う、何もないけど、ただ、ただ、幸せ。と感じる後者の幸せです。
 
我々の心は日頃、ただ、ただ、忙しいので、この静けさ(安らぎ)を感じることができないのだそうです。
 
「だったら、誰もが皆、自からの「心」という海を潜ったらいいじゃないの!」という結論になるわけですが、「そう、うまい具合にはならないのですよ!」というのが現実のようです。
 
何故かというと自らの心の内を潜る過程において、必ず、さまざまなゴミと出会うからです。


潜在意識のゴミとは

潜在意識に沈んでしまった恐怖、不安、怒り、怨み、憎しみなど、さまざまなネガティブな感情や、過去の嫌な思いなど、たくさんの障害物がそこにはあります。

潜ってゆくうちに、必ず、それらのものと、ぶち当たります。

仮に、恐怖という「塊(かたまり)に、ぶつかったら、それはもう、大変なこと。

「わ~~ 怖い!」ということで、怖くて、怖くて、引き返すか、逃げ出すか

それとも、最初から、そんな怖い思いをしてまで・・・と、もう、二度と、潜ってみることはしないでしょうね。

 


以前、ある方からメールを頂きました。そのメールの内容を一部拝借しますと

「魂の深い所に触れるのは非常な恐怖感を伴うもので人はそれを避けるためには何でもする」

 
ということが書いてありましたが、まさに、そんな感じなのです。
 
昔から、自分自身の心をよく見つめなさい。と言われていますが、言うのは簡単 でも、しかし、実践となるとなかなか大変な事なのです。
 
記述式内観ですが、「内観」という字をよく見ていただくと、エッ、内を観ると書いてあるではないですか?
 
内観についてのやり方だけを読んでいると、親に対しての悪口を書くことが、記述式内観だと思われてしまうようなところがあるようですが、実は、記述内観法とは、自らの内側を観ることをするためのお手伝いなのです。
 
自らの内側を観るといっても、今までの人生の中で、たくさんのゴミを内側(潜在意識)に溜めてしまっているので、いきなり光の部分を発見できる人は稀ですから、まずは、ゴミ処理から。
 
実際に自分自身の内側を観察してみると、よく分かりますが、あまりにもゴミの多さに嫌気がさして、続ける気力がなくなります。

また、ゴミを見続けることなんて、もう、うんざりですよ。となってしまうことがほとんどです。
 
ですから、独りで、それをやり続けることはなかなか至難の技です。
 
そこで登場したのが、 記述式内観研修

ゴミ出し作業に焦点を絞り、短期間の内に、一気にゴミを処理してしまいましょう。
という研修なのです。
 
ゴミさえ、うまく処理できれば、誰でも光(感謝の領域)意識にたどり着くことができる。という発想の元に、世にも珍しいゴミ、ゴミ、ゴミと、ゴミ処理だけに専念した研修となっております。
 
そんなに一度にたくさんのゴミを、その人自身の内側から出してしまって、ゴミ出しに参加した人が具合が悪くなってしまうのかというと、何とも不思議、ゴミを出せば出すほど、気持ちが楽になってしまうというのが現実です。
 
参加された場合には、用意された紙に、ただ、ただ、親に対しての愚痴、不満、悪口等を書けば良いのです。
 

あの時、あんなことを言われて、とっても、頭に来た。

なんで、あんな事を言われなければならないのだ。

ばかやろう。冗談じゃ〜〜 ないよ。

親父なんか、死んでしまえ! 

 ・・・ と、こんな感じで、ご自身の心の中に、ため込んだ本音を、ただ、紙に書くだけなのです。書いていると、段々に、心の奥深くに沈んでいた、潜在意識レベルの思いや感情が出てきます。
 
参加者さんに、やっていただく事とすれば、たとえばですが、あなたの家の台所にある家庭ゴミを、ゴミ収集場所にまで、持って来ていただくことなのです。
 
その後はお任せ下さい。
ゴミ収集場所に集められたゴミは、記述式内観のスタッフがゴミ収集車を運転して、ゴミ焼き場まで運んでゆきます。・・・というような感じなのです。なんとも不思議な話ですよね〜〜
 

なぜ、
記述式内観は、
自分一人で我流でやらない方がいいのか?

 
一には、
ゴミ処理は、参加者ご自身では、とても、とても、大変な作業となるので、プロに手伝ってもらうといいのではないでしょうか。という感じです。
 
そして、もう一つには、
いざ実際にやってみると、自分自身の意識が、自からの内側の、本当に向かわねばならない点から目を背けてしまう。辛い事、嫌な事は誰だって見たくないですよ。

つまり、心は、いろいろな理由をつけて逃避しやすいのですが、それを、第三者的立場である面接者が戻してくれるのです。
 
 

心のゴミとは自分自身のもっとも辛い部分でもありますから、意識が別のところへ逸れてしまっても、まあ、仕方がないことではありますが・・・

でも、逸れてしまったままでは、いつまで経っても、本当のゴールへ行き着くことが出来ないでしょうから、内観のお手伝いしている私共としては、この時にこそ、参加者の意識が内側へと向かえるようにと、何度も何度も軌道修正というサポートをしてゆくことになります。

 
やっと本来の軌道に戻ったかな~~ と思っていると、また、2時間後の次ぎの面接のときには、また、方向性が逸れてしまうという方もいらっしゃいました。ご本人様の長年の心の癖なんでしょうね。
 
自分自身の内側の現実から逃避してしまうと、いつになっても道が開かれることはありません。

つまり、汚いものには蓋をして、見て見ない振りをして・・・ ということで、偽りの人生を送らなければならないと感じますから、ここが勝負どころと思って、また、その方が自らの内側と向かい合えるようにと後押しをして差し上げたりするのですが・・
 
まあ、なんとなく、こんな感じで、記述式内観をやっています。