NO.60 波の振幅

 
寒いですね。今年は雪が多いみたいですし、大変な冬ですよ。如何お過しですか?
 
ただ今、冬季オリンピックの最中ですが、世の中、不景気というか、暗いニースばかりで沈みがちですが、ウキウキしちゃいますよね。世界規模での「一大イベント」って、そう、いつもいつもあるわけではないし、テレビ漬けになりそうです。でも早寝早起きだけはしたいですね~
 
そう言えば、以前、日本でサッカーのワールドカップが開催されましたが、あの時も日本中が盛り上がりましたよね。サッカーにまったく興味がないという人でさえ、テレビに釘付けになった人もいらっしゃる位で、日本中が興奮の渦に包まれたという感じでした! あれからもう何年経つのかな~ 月日の経つのは早いものです。
 
ワールドカップ終了後、テレビで紹介されていた話ですが、日本でワールドカップが開催されることを待ちに待っていたという多くの方々が、いざ、ワールドカップが終わってしまうと、期間中の盛り上がりとは逆に、まったくやる気がなくなってしまったらしいです。人によっては気分が落ち込んでしまったというか、もっとも深刻な人では、うつ病状態になってしまったという人もいらっしゃるらしいですよ。
 
誰が名付けたかは知りませんが、そのような症状(うつ病状態)のことを、「ワールドカップ症候群」と呼ぶらしいです。面白い病名があるものですね。あれだけ、楽しみにしていたワールドカップが、実際に日本にやってきたのだし、そして、日本チームが予選では勝ち点を上げたりして、また、多くの有名選手がやってきたりで・・・ サッカー好きの人だったら、だれだって興奮しちゃいますからね~~
 
さて、この現象を別の視点から眺めてみると「興奮の次に、ガクンと落ち込む!」という現象が、実は、自然の反応であるということに気づきます。下手な図ですが、波の登場です。「デザインセンス、トホホ~」の数少ない私の手書きのイラストです。お見苦しいのはご勘弁下さい。
 

 
 
図の左側から見ていただくと、2つ目の波 ⇒ 高波がありますよね。波の頂点はかなり高いです。そして、次ぎの瞬間には、波はガクンと下がり、相当低い状態になりました。波は、高ければ高い分だけ、逆に、下がった時は低くもなります。興奮とは、精神が高波の状態、つまり、この図でいうと、波が最高点に達した時のことを指しますが、次の瞬間には、高くなった分だけ低くもなります。ガクンと落ち込むわけです。意識の波も、海の波とまったく同じ原理です。
 
ところで、我々の心が日々、活き活きとしていられる為には何が必要だと思いますか?
と、以前、いろいろな方に尋ねたことがありましたが、人それぞれに、いろいろなご意見を頂きました。
 
ある人は「愛」 ある人は「真心」 また、ある人は「目標をもつこと」などなど。どの答えも「正解」なのでしょうが、でも私自身が期待していた内容とは異なりました。私が求めていた答えは、心が活き活きするために必要な事としては「刺激」だったのです。
 
我々の心というものは「刺激」がなくなると退屈してしまいますから、絶えず、何か新しい刺激を求めているということになります。おいしいものが食べたいからお店を食べ歩くのだって、週末に映画を見にゆくのだって、海へ遊びに出かけるのだって、旅行だって、みんな刺激を求めて・・ということになりますよね。
 
刺激の無い生活をしていると、心は退屈になってしまって、ドンヨリと無感動になっしまいます。そうならない為にも、心は心なりに絶えず刺激を求めて続けているということになるようです。「刺激」があるからこそ、我々の心は良い意味でも、または悪い意味でも、いつでも活き活きとしていられるということになります。
 
ええ、悪い意味で? って、どういうことですか?
 
そうですよね~ たとえば、胃が重くて、食欲もなくて、ちょっと胃の辺りを手で触ってみると、シコリのようなものがあったとしたら? それはそれは心配な事なので、すぐに病院へ行って検査を受けました。そうしたら、「もしかしたら胃癌かもしれませんよ?」と医師から告げられ、早速、精密検査を受けることになりました。
 
「結果は一週間先になりますから、また来週にお越し下さい」・・・なんて言われたら、一週間後の検査結果が気になって、夜も寝られなくなってしまった。このような時もある意味において、心は活き活きとしている。と言えるようです。
 
また例えば、「お前、本当にバカだな~~」なんて言われたら、「なによ~~ あんたこそ、大バカだろうが・・・」と腹を立てている時だって、心は凄く興奮しているわけですからある意味において、とても活き活きしていると言えるでしょう。
 
この「ある意味において」という点が、実は、くせ者なんですが、良い意味においても悪い意味においても、心は絶えず外界に対して刺激を求め、そして、その刺激に対して反応し、良くも悪くも活き活きとした状態を保つことで、心は心としての活力を見出しているようです。残念ながら、これが心の特徴(本質)みたいなものなので、良くも悪くも仕方がないです。
 
刺激を求めるということ自体は、心の本質(在り様)ですから別に悪いことではありませんが、ここで一点注意しなければならないこととしては、求める刺激が、より刺激的なもの、より刺激的なものへと、段々にエスカレートしてしまうことが問題ではあります。
 
より大きな刺激を求めるということは、先程の図で言うと、より高い波を求めるということに値しますから、波の原理からすると、高い波の後では、心はズド~~~ンと、深く沈み込んでしまうということになるわけです。それが、「ワールドカップ症候群」という精神的トラブルを引き起こした所以ともなるわけです。
 
サッカー嫌いの人だったら、「ワールドカップ症候群なんて、他人事よね!」と思うでしょうが、でも実際には、我々は、日々の生活の至る所で「ワールドカップ症候群」と同じような状況に見舞われているのかもしれません。ですので、私には他人事のようには思えないのです。
 
最初は小さな刺激で満足していたことが徐々にエスカレートしてしまって、もっと、もっと・・・ということになると、欲望が増幅されてしまうことだってあります。私の知り合いで、いや、知り合いといっても、まったくおつきあいはしていませんが、ただ、そんな人を知っているという程度の話ではありますが、その方は奥さんが居るにも関わらず、次から次へと女性にアタックして、・・・ という感じなのだそうです。ですから、いつも、いつも、奥さんとは大喧嘩をしているみたいです。
 
彼は彼なりに、刺激を求めているのでしょうが、でも、心の赴くままに、本性丸出しの生き方をしていたのでは、けっして幸せにはなれないと思えますし、ならば、それをどうにかしなければならないのですが、例えば、刺激を求め続けるというその心の働きを意志の力で押さえ込んだらどうでしょうか?
 
宗教の世界では「欲望は、極力、抑えなさい」と言われているようですが、意志の力で欲望を抑える事が真の解決策になるのかな? 私個人の意見ですが、欲望を意志の力で抑えるというのは、あまり賢明な手段ではないようにと思うのです。だからと言って、気の赴くままに刺激を求めていると、これまた大変な事になりそうです。いやいや、なかなか、難しい問題ですよね~
 
実は、より強烈な刺激を求めないと満足できない。ということは、心の感覚が鈍くなっている証拠なのです。
 
私は比叡山に憧れていたので、20代の頃はよく足を運びました。山の雰囲気、お寺の雰囲気も好きなのですが、そこに住んでいるお坊さんにも大変、関心がありました。そこには千日回峰行という厳しい修行をしているお坊さんがおりまして、毎日、毎日、同じ道のりの山々を、何十キロメートルも歩き回り、要所、要所では、人々の幸せを祈願しているようです。そのお坊さん、確か、酒井さんという方でしたが、酒井さんが以前、テレビに出演されて、次のようなことを語っていました。
 
最初の何年間は、ただ、ひたすら1日の行程(ほとんど寝ないで一日中、山道を歩く厳しい行)を達成することだけで精一杯だったが、段々に心の余裕が出てくると、毎日、毎日、同じ道を歩いていても、1日として同じ道と感じることはなく、毎日、毎日、同じ道を歩いても極めて新鮮である。というようなことを、おっしゃっていました。
 
単調な、同じ事の繰り返しの中でも、人によっては、毎日がとても新鮮だな~ と感じることができる。しかし、一方で、「なぁ~~んだ、今日一日も、いつもと変わらず、まったく新鮮なこともなく、退屈というか、つまらなくて・・・」と、感じてしまう方もいます。
 
この違いは、いったい何なのでしょうか?
ひとことで言えば、「感覚の鋭さ」OR「感覚の鈍さ」という問題のようです。
 
仮に、自らの感覚をうまく研ぎ澄ますことができるとしたら「毎日が同じ事の繰り返し」としか思えないような日常の単調な生活でさえ、すごく変化に富んだ、新鮮な、刺激的な場と感じられるようになれるかもしれません。
 
逆に、日々の生活の中で、敏感さを養うことなく、ひたすら心の赴くままに、刺激を求め続けると、以下の図のように、心の波がドンドン大きくなってしまいます。残念ながら、その延長線上には、真の幸せは待っておらず、波が大きくなった分だけ、波瀾万丈の結末となってしまうような気が致します。
 

 
最初は、ちょっとの刺激でも満足していたのに、徐々にその刺激に慣れてしまうと、もっと、もっと、強い刺激が欲しい。ということになって、気がついてみたら「強烈な刺激でないと満足しなくなってしまった」ということにもなりかねなせん。そうなったら、要注意ですね。
 
今でこそ、人並み程度に辛いものが食べられるようになった私ですが、20代の頃、インドへ出かけた頃は、とても辛いものが苦手でした。「インドへ行くぞ」と決めたときより、毎日、カレーパンを食べて、辛さに慣れる努力した過去の想い出がありますが、いざ、インドへ行ってみると、インド人が普通に食べている食事は私には地獄でした。いや~~ 辛い、辛い!
 
辛さについていえば、世の中、凄い人がいるんだな~~ と感心しますね。だいぶ辛いものが得意となった私でも、今でも、まったく手を出せないと感じてしまう程の超辛いものを平気で食べてしまう人がいるんですね。
 
私の友人にも、超、辛いモノ好きという人がいるので、その彼に尋ねてみたら・・・
最初から、こんなに辛いもモノを食べていたわけではなかったが、辛いモノを食べ続けていたら、段々に辛さがエスカレートしてしまって、少しくらいの辛さでは満足できなくなり、最近では、辛いモノを食べることで身体の調子が悪いと感じつつも、それでも辛い刺激が欲しくてたまらず、良くないとは分かっていても、超辛いモノを食べ続けているということらしいです。刺激を求めすぎると、エスカレートするみたいです。
 
毎度、お馴染みの気づきの瞑想。
お腹の膨らみ、へこみを、ただ、ひたすら感じ続けるという単調な作業。
やっていても、すぐに飽きてしまうし、味も素気もないような瞑想。
いざ、奮起して、挑戦したものの、10分も経たないうちに居眠りに突入しそうなくらいに眠くなってしまうこもとあります。一度は、挑戦してみたよ。という方でしたら、何で、あんな退屈なことをするのだろう? と思われたことでしょうね。
 
その気持ち、よく分かりますよ。最初は誰でもそうですが、ただし、続けてゆくと、感受性が敏感になり、気づきの瞑想を行うこと自体が苦痛ではなくなってきます。またまた下手なイラストで恐縮ですが、気づきの瞑想を続けてゆくと、下記の図のように、心の波の上下の振幅が穏やかになってゆきます。(左から右へ移動と考えて下さい)
 

 
なぜでしょうか?
呼吸と共に変化するお腹の膨らみ、へこみに意識を向けていると、息を吸うときには、少しずつお腹が膨らんでゆくのが感じられます。そして、息を吸いきった状態の時には、ほんの一瞬ですが、動きが停止し、そして、次の瞬間から、吐き出す作業が始まりますが、吐くことによって、お腹が少しずつへこんできますが、その感触が感じられると思います。
 
この状況を更に注意深く感じ続けてみると、一息吐き出す中にも、へこむ感覚がさまざまに変化していることが分かります。一度にお腹全部がへこむというよりも、まず、鳩尾辺りがへこみ、そして、そのへこみが下っ腹辺りに移動したり・・・これも人によりさまざまですが、極々微妙に変化しているのが感じとれます。その間、下着と肌が擦れ合うような感触があったり、・・・
 
注意深ければ、へこむという単純な動作のたった少しの合間にも、さまざまな感触を感じとることが可能です。通常の生活では、このような微妙な変化を感じとるというようなことはしませんが、あえて、このように注意深くものを感じてみるということを意図的にすることによって、より微妙なものを感じとれるような感受性が身に付くというわけです。つまり、敏感さが得られるということになります。
 
このような敏感さを身につけるには、ただ、ひたすら単純な作業を繰り返すというのが基本となります。その一番いい例が日本が世界に誇る職人さん達の匠の技ですが、彼ら職人さん達は、一見、極めて単調とも思えることを繰り返す中で、極微妙な変化を感じとる感覚を身につけてゆくのです。
 
単調なことを繰り返す中で、心の中でどのような変化が起きているのかと言えば、心というものは、自らを活き活きさせる為に、絶えず、刺激を求めているわけですが、心の持ち主であるご主人様が、いつも同じことばかりを繰り返していると、その心はご主人様に対して、「もうやめようよ。飽きたから!もっと刺激的なことをやろうよ」とささやくわけです。
 
しかし、それでもご主人様が、断じてそれを続けるぞ。という姿勢を示すと、心は、「もうやめようよ。飽きたから!」と訴えかけることを諦めます。次には、心が、ひらきなおったとでも言うのでしょうか? 状況が変わらないのであれば、その単調な作業の中であっても、自らが満たされる何か新しい刺激を求めなければならず、結果としては、より微妙な刺激を求めるしか、刺激を欲する心としての満足の得られる道がないということになるのです。
 
たくさんのお金がいつでも入るということになると、人はお金に対して、大ざっぱになって、時には浪費もしますが、今の世の中のように、不景気で、あまりお金が入ってこなくなると、人は少ない収入の中でやりくりをするというように、この状況を受け入れるしか、他に道はないんだ。と覚悟が決まると、その環境の中で新たな道を見出すという感じです。
 
気づきの瞑想は単調です。へこみ、膨らみを感じるだけです。最初のうち、心は、そのような単調な作業に飽きてしまいます。何故かというと、今まで大きな刺激ばかりに慣れてきたので、微妙な変化(刺激)では満足できないからです。
 
しかし、それでも頑張って、へこみ、膨らみを感じ続けてゆくと、心は、大きな刺激がやってくることを諦め、微妙な刺激(へこみ、ふくらみ感覚)の中にも、満足するだけの快感を見出すようです。ここまでくれば大したものです。気づきの瞑想が、これまでのように苦痛ではなくなってきます。気づきの瞑想が苦痛でなくなってきたということは、感覚がより磨かれ、鋭敏になってきたという証です。
 
今まででしたら、刺激的なことがないと、やっていられないよ。という日常生活であっても、気づきの瞑想の実践によって感受性が豊かになると、大した刺激がなくても、日々、坦々と暮らせるようになれるかもしれません。
 
感覚が鋭敏になると、特に、ワクワクさせられるような刺激的な変化が日々の生活になくても、より微妙なレベルで、満足できるだけの刺激(変化)をいつでも感じていますから、人から見れば退屈しそうな生活であっても、本人の心は充分な刺激を受けているので大満足であり、極微妙な刺激の中で、心はいつでも活き活きとしていられるようになるようです。
 
突然ですが・・・
 
 古池や 蛙(かわず)飛び込む、水の音
 
どこかで、聞いたことのあるような?
そうなんですよ。
有名な松尾芭蕉の俳句です。
 
解説しますと、1匹のカエルさんが、池に飛び込んで、そのとき、ポチャンと音がした。エッ。ただ、これだけなんですね。(いやいや、参ったね~ 解説するね。と言ってはみたものの、これじゃ~ 解説にも、何にも、なっていませんですよね。文学的なセンスの無さをお見せしてしまったようで、お恥ずかしい~~)
 
今の時代、カエルが池に飛び込んだくらいで、誰が、そんなことに感動していられるほどの暇があるんだ? と、叱られそうですが、でも、芭蕉さんは、辺り一面、静まりきった清寂(静)という空間の中で、一匹の蛙が池に飛び込み、ポチャ~~ン と、静けさを破ったその一瞬の水音の響き(動)に、茶道でいう「わび」と「さび」の世界のようなものを感じたのでしょうね。そして、心が満たされたのでしょうね。こんな些細なことの中にも、人が幸せを感じられる「きっかけ」はたくさんあるようです。
 
宇宙の中心(源)から、我々に向けて押し寄せて来る「幸せの波」は、とてもとても波長が細やかだそうです。波が穏やかということらしいです。ですので、感受性が鈍くなっていると、その波を受けとることが難しいようです。
 
しかし、芭蕉さんのように、鋭敏さを持ち備えた心では、その微妙な波を感じとることが出来ますから「あの人は、いつでも平凡な生活をしているみたいだけど、でも、いつでも満たされているのはどうしてなのだろう?」ということになるのではないでしょうか。
 
逆に、感覚が敏感でないと、細やかな波動である「幸せの波」をキャッチすることはできませんから、心はいつでも満たされず、刺激的なことだけを求め続け、これでもか、これでもかと、ドンドンとエスカレートしてしまうようです。
 
たとえば、ギャンブルなどは、ある意味、とても刺激的で面白いことではありますが、しかし、反面、波長がとても荒いので、下手をすると、エスカレートしすぎてしまって自らを失ってしまうこともあるようです。多額の借金を背負ってしまったなど、一生、取り返しのつかないことにもなりかねませんから要注意ですよね。
 
まとめますと、より強い刺激を外に求めるのではなく、いま、すでに在ることの中から、より繊細な変化(刺激)を見出す工夫が気づきの瞑想の原点なのです。